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これが第一章のタイトルであるから衝撃だ。今日はヨーロッパ随一の知の巨人、スラヴォ

イ・ジジェクの新巻をご紹介しよう。

スラヴォイ・ジジェク著『ポストモダンの共産主義-はじめは喜劇として、二度目は笑劇と
して』ちくま新書 2010

著者の紹介
スラヴォイ・ジジェク
スロベニア出身でポスト構造主義系の思想家、哲学者、精神分析家。
リュブリャナ大学で哲学を学び、1981 年、同大学院で博士号を取得。1985 年、パリ第 8 大
学のジャック=アラン・ミレール(ジャック・ラカンの娘婿にして正統後継者)のもとで
精神分析を学び、博士号取得。現在はリュブリャナ大学社会学研究所教授。
難解で知られるラカン派精神分析学を映画やオペラや社会問題に適用してみせ、一躍現代
思想界の寵児となった。(Wikipedia より)

1989 年、ソ連が崩壊し、冷戦が終わると、フランシス・フクヤマは言った。
「歴史の終わり」
と。もはや共産主義イデオロギーの失敗は明らかだ。資本主義は歴史における社会の最終形
態である。資本主義万歳!

それから 20 年余りの月日が流れた現在。資本主義は完全なる形態として出現しているだろ
うか?確かに資本主義は確固たる形態を保持しているようにも見える。もはや自明のこと
として受け入れられる。「共産主義」というワードは「死んだ」ように見える。

しかし、ジジェクはグローバル危機の流れにあって、資本主義イデオロギーに異議を唱える。
9.11 と世界金融危機後の世界を、闘う思想家ジジェクが「共産主義=コミュニズム」のレン
ズを通して暴きだす。ポストモダンの資本主義イデオロギーの本質を捉え、その虚妄を徹底
的に批判し、大胆に、そして挑発的にこう叫ぶ。「コミュニズムよ!もう一度!」

さて、本書の中身を見ていこう。本書は 2 部構成であり、第一部「肝要なのはイデオロギーな
んだよ、まぬけ!」と第二部「コミュニズム仮説」からなる。その本章に入る前にジジェクは
この著書の立ち位置を序章において定めている。あまりに挑発的だが、重要なので取り上げ
たい。

 本書が示すものは、中立的な分析ではなく、徹頭徹尾「偏った」分析である。なぜなら、真実
とは偏っているもので、人がある立場を取ったときだけにだけ近づける、だからこそ普遍性
を持つものだ。もちろんここでとられる立場はコミュニズムである。(p.15)

 新しきものの真の新しさを捉える唯一の方法とは、古きものの「永遠の」レンズを通して
世界を見ることだ。(p.16)

ここで重要なのは「真実とは偏っているもの」であるということである。ハッと気づかされ
ることがあるのではないか?自分が「中立的」な立場をとって「真実」を追求しようとしてい
たが、そこに真実はないのだと。また、
「古きものの「永遠の」レンズ」も今のわれわれ現代人
に求められているのではないか?あまりにも多くの情報(インフォメーション)が氾濫す
る中で、依拠するものは何だろうか?私にはそのヒントが「古典」にあるように思えてなら
ない。(ただし、
「古典」というのは単に古い本を指すのではなく、時代の波を乗り越えた、あ
るいは乗り越えられる著作のことを指す。実際の年数は関係ない。)

さて、ジジェクはそのような前提に立ったうえで論を展開する。第一部「肝要なのはイデオ
ロギーなんだよ、まぬけ!」。このタイトルは何なんだと思うかもしれないが、しかし確かに
これが重要なことなのである。ジジェクが言いたいのはまさにこの点なのだ。

具体的にみていこう。ジジェクはグローバル資本主義イデオロギーを描き出すためにまず 、
9.11 と世界金融危機の世界に対する影響を精神分析的な手法も取り入れつつ分析している。

現代資本主義のパラドクスについて、金融危機とアメリカの緊急援助政策についてのウォ
ール街の「モラルハザード」を指摘しながら触れている。

 現代社会にリスキーな選択がつきものであるのは確かだが、実は選択するのは一部の人
間だけで、その他大勢はリスクを冒すだけの社会なのだ。(p.28)

また、イラク戦争について述べた個所では資本主義イデオロギーの「ショック療法」を指摘
している。

 ある種の(自然の、軍事的な、経済的な)トラウマを与えることによって「古い習慣」を捨
てさせ、イデオロギーのタブラ・ラサ(白紙状態)にしてしまえば、その象徴的な死を生き
延びた国民にはもはや何の抵抗もなく新しい秩序を受け入れる準備があって、完全な市場
経済を 課することはたやすい、ということだ。(p.38)

他の事例でいえば、9.11 のトラウマを与えることによって、普通では通ることの無い様な愛
国法がアメリカで通ったのもその一つであろう。
ジジェクは資本主義イデオロギーの正当化に関してバディウ「適正プロパガンダ」概念によ
って説明している。  

 こうしたイデオロギー正当化の典型例として、バディウが厳密に定式化した適性プロパ
ガンダの根本的なパラドクスも挙げられる。それは知られざる相手、構造的に見えない相手
との戦いだ。現実の対抗勢力(政治的敵対者)ではなく、状況に内在する可能性(ユートピ
ア的な革命解放の可能性)との戦いなのである。(p.52)

要するにここでは、現代の資本主義イデオロギーは目に見える形で現れないため、見えない
相手と戦わねばならないと言っているのである。資本主義イデオロギーの不可視性がポス
トモダンな状況を暗示する。

また、次にジジェクは資本主義イデオロギーの「人間的」側面について述べている。そのタイ
トルはニーチェの著作から、「人間的な、あまりに人間的な」(第 4 章)とされている。
ジジェクはイデオロギーの「人間的」側面を徹底的に批判する。

 ここで精神分析が与える第一の教訓は、「精神生活の豊かさ」は基本的にでっちあげだと
いうことだ・・したがって、イデオロギー批判の一つの方法として、この「精神生活」と「偽
りなき」感情の欺瞞をあばく戦略を生み出すことがある。(p.72)

その例としてはホロコーストを生み出したラインハルト・ハイドリヒの「教養生活」やパレ
スチナの民家を「同情しながら」破壊するイスラエル兵士を挙げている。ここにイデオロギ
ーの虚構があるという。

次の文はわかりやすく、今日の資本主義イデオロギーの性質を描いている。理論物理学者の
ニールス・ボーアの逸話だそうだ。ユーモアの中に真実が見え隠れしている気がする。

ボーアの田舎家を訪れた同業者が、玄関に馬蹄が打ちつけてあるのを見て、馬蹄が邪気を払
うなどという迷信をまさか信じてはいないだろうね、と叫ぶと、ボーアは間髪をいれずに答
えた。「僕も信じてはいないよ。たとえ信じていなくても効果があると聞いたからこうして
いるんだ。」これこそ今日のイデオロギーの機能のありようである。(p.89)

私が衝撃を受けたのはジジェクが「自由の選択」について述べた部分である。ジジェクは「選
択社会」の行きづまりについて言及する。今日の社会は「自由に」個人の欲望に合わせて「選
択」ができるようなきがしてしまう。何でも商品はそろっており、本がほしければアマゾン
でクリックするだけ、不眠症ならば寝心地のいい枕を通販で電話一本。そのような「自由」に
よって私達は「自己実現」している気分に浸ることができる。しかしジジェクはその本質を
次のように語る。

今日、選択という点ではイデオロギーは実に多様な選択肢を用意してくれている。と行って
も、選択の自由などは幻想にすぎない、我々が「自由」を自覚するのは、内的性向を妨げる外
的障害がなくて、身体が決定した通りに行動できるときだけだ、と脳科学者は指摘している
が。(p.109)

 もっと根本的な問題は、欲望に関する問いに主体が答えられないことだ。(p.110)

さらに、ラカンを引き合いに出してこう言う。

 失われた対象は、結局主体そのもの、対象としての主体であるという。とすると欲望につ
いての問い、根源的な謎は、そもそも「私は何を欲するか?」ではなく「他者は私から何を欲
するか?私にどんな対象-<対象 a>-を見いだすのか」である。(p.111)

この辺りはわかりづらいが、要するに私達は「選択の自由」が与えられているようでそれに
応え ることができない、むしろ他人がこうして欲しいと思うことにより自己を規定してし
まっている状態が現在の社会の在り方なのだということである。支配的イデオロギーによ
って各人の欲望は埋められている。「選択」というあたかも「主体」を伴ったもののように。

この後ジジェクはより具体的に現代社会の「病状」を「診断」しているが、ここでは省く。第二
部に入る前にジジェクの批判は「リベラル」に向かう。
「リベラリズム」はそれ単体では自立
的に機能せず、常に「寄生的」であるとし、上記のような資本主義イデオロギーを根本的に批
判できるのは復活した左派だけであるとする。すなわち、「コミュニズムよ、もう一度!」
(第 7 章タイトル)なのである。

(続)
ここから第二部の「コミュニズム仮説」に入る。第一部では現状のイデオロギーを徹底的に
批判した後、この第二部では「コミュニズム」に向けて開かれた地平を資本主義イデオロギ
ーと対置させながら描いていく。

ジジェクはまず、キルケゴールの言葉を借りて革命に向かうコミュニズムの視点を持ち込
む。
 「革命の過程とは漸進的な進歩ではなく、反復の運動、何度でも「始まり」を繰り返す運動
である。」(p.147)

この「始まり」が「コミュニズム仮説」と呼ばれるものである。これはバディウの思想である
「コミュニズム」とは敵対性、すなわちここでの資本主義イデオ
ようだ。簡単に要約すれば、
ロギーに立ち向かう運動としてとらえ、その有効性は常にこの「始まり」に戻って運動を呼
び起こすといった仮説であるということだ。コミュニズムについてはさらに次のように表
現される。

 「・・コミュニズムとは現前を夢見ることであり、あらゆる疎外された再・現前(=表
象)の 廃絶という夢想、自らの不可能性を養分として育つ理想ということだ。」(p.149)

この意味でコミュニズムは「終わった」ものではなく、今なお有意義であるというのがジジ
ェクの主張である。<大文字の歴史>に抗し、歴史の裂け目において起こるのが革命であり、
コミュニストたちがその主体であるというのだ。

その上でジジェクは現代の資本主義イデオロギーにおける敵対性を明らかにしなければな
らないとする。それは四つの敵対性であるという。簡単にすれば

① 地球環境破壊
②「知的所有権」に関する私的財産的考え
③ 新しいテクノロジーの倫理(生命工学など)
④ 新たなアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム

この中でもっとも重要なのが④であるという。そこでこの敵対性の構造を「3+1 構造」と呼
ぶ。これらの敵対性の構造に対してコミュニズムの理解が重要であるとジジェクは再度強
調する。そしてコミュニズムのためには「理性の公的使用」(第 10 章)が必要となるという
のだ。

「ここから、コミュニズムの次の基本定義がもたらされえる。社会主義とは対照的に、コミュ
ニズムでは特定の限定を回避して、単独的普遍性へ、単独性と普遍性との直結へと目を向け
る。」(p.175)

この辺りからカントなどの哲学者の思想が込み入ってくるので非常に厄介になる。可能な
限り簡単にとらえたい。

カントの言うところの「私的」とは「特有の帰属化が行われる共同体・制度の次元」、それに
対して「公的」とは「人間の〈理性〉の行使という、国境を超えた普遍性」である。したがって、
「理性の公的使用」とは何かの組織・団体などに帰属している個人として理性を使用するの
ではなく、直接的に人類的普遍性を伴った人を対象にして自らの理性を行使するというこ
とである。例えば、ある大学教授がその地位や官職にとらわれず(例えば大学総長という地
位)、公衆を前にして大学の自治について自由に発言し理性的に振舞うということであろ
う。ここではある意味パラドキシカルで地位や官職といったものが指摘であるとしている
のである。(普通、大学総長という地位は公的なものととらえられる)

その上で先の単独普遍性というのを

 「単独の主体がある種の直結によって、特定のものの仲介を回避して〈普遍的なもの〉に直
接参加する・・」(p.176)

とし、

「人間はあくまで単独であるとき社会的アイデンティティの感激にいるときにのみ、真に普
遍的であるということだ」(p.177)

ということによって、革命主体となりうる人間の理性のふるまい方を規定した。「理性の公
的使用」が、ジジェクが言うところの、
「異なる行為者たちの爆発的結合」をもたらし、コミュ
ニズムの地平を開くのである。

次のジジェクは過去の「ハイチ革命」に触れるとともに、ヘーゲルの思想を持ちだす。
 

 「「ヘーゲルとハイチ」-おそらく最も簡潔なコミュニズムの公式である」(p.187)
この辺りも全部を言うとチンプンカンプンになるので、まとめると、ハイチはかつてのフラ
ンスの植民地であった。そのハイチが革命を起こし、ナポレオンが軍を派遣したことは知ら
れている。そこでフランスの軍隊が見たのは「ラ・マルセイエーズ」を唄うハイチの民衆の
姿であった。ハイチ革命に際して、ハイチの民衆はフランス革命という宗主国のアイデンテ
ィティによって自分たちを再定義したのである。つまり、旧来の白人(すなわち宗主国)に
よってしか自身のアイデンティティ(=植民地)を規定できないという状態を白人の伝統
を再利用することによって再規定し、白人の独占状態を終わりにしたということである。こ
のような普遍性の体現がコミュニズム的なのである。

このような前提も踏まえながら、ジジェクはさらに「コミュニズム」や「革命」について語る。
ジジェクは「革命」は「差し引き」による革命でなければならないとする。
「差し引き」とは三
つの段階があるという。

① 自らを差し引き切り離す
② 錯綜した状況を最小限の際に縮減する。
③ 既存の秩序を破壊する。

これをハイチ革命の例でいえば

① 宗主国であるフランスによる植民地支配から、自分たちの「ハイチ」を切り離す
② 革命の混乱の中で普遍的である宗主国フランスの「フランス革命」の概念を持ち出す。
③ 植民地支配を終わらせる。

非常に分かりにくいところもあるが、ジジェクの言う「差し引き」による革命は、次のたとえ
が理解を助ける。

 「カードの家(トランプのピラミッドなどのこと?)から一枚のカードを抜くだけで出
全体が崩れてしまう、そんな差し引きである。」(p.215)

つまり、その差し引きによってすべての秩序が崩壊し、新しいものが「始まる」のが「革命」な
のである。「革命の暴力の目的は国家権力を奪取することではない。国家権力の機能や基礎
付けなどを根本から一 変させることだ」(p.217)にもその考え方が現れている。

そしてそのような「革命」の概念的な説明から、具体的に現在の「革命」を導き出す。
ジジェクは今日の資本主義による搾取はかつてのような利潤ではないとしている。それは
レント(超過利潤)であるという。具体的にいえば、今日の資本主義社会では数値で表され
るような利潤のみならず、それを超えたものを搾取しているということだ。例えば、マクド
ナルドでの労働はハンバーガーを作り、売るであるが、搾取の対象はそれを作る労働者のネ
ットワークや労働者個人のサービス(スマイル 0 円はその最も視 覚的な例だ)となってい
る。これはネグリが「非物質的労働」と呼ぶものである。この点はジジェクも共有している。

このような状況の中で国家はかつてよりもその力を強めている。それに対抗するにはどう
したらよいのか?ジジェクは最終章「われわれこそ、われわれが待ち望んでいた存在であ
る」の中でその考えをまとめていく。ジジェクは今日なすべき政治運動を「沙汰らしい運動
を起こすよりも、現在支配的な運動を中断させること」と捉えている。ジジェクはジャン=
ピエール・デュピュイの「プロジェクトの時間」という概念を持ち出す。

 「デュピュイはこれを「プロジェクトの時間」と呼ぶ。過去と未来の閉じた回路である時間
だ。未来は我々の過去の行為から偶然に生み出されるが、その一方で、我々の行為のあり方
は、未来への期待とその期待への反応によってきまるのである。」(p.247)

 「・・これこそ偶然と必然のヘーゲル的弁証法なのである。この意味で、人間は運命に決
定づけられていながらも、運命を自由に選べるのだ。・・まずはそれが運命であると、不可
避のこととして受け止め、そしてそこへ身を置いて、その観点から(未来から見た)過去へ
さかのぼって、今日われわれの行動についての事実と反する可能性(「これこれをしておい
たら、今陥っている破局は起こらなかっただろうに!」)を挿入することだ」(p.248)

 「逆説的ながら、大惨事を避けるための唯一の道は、それを不可避なこととして受け入れ
ることなのだ。・・時間を超えて未来に追いつき、向き合って、実現してほしい未来が既に
そこにあるかのように今行動するということだ」(p.249)

ここで述べられていることがジジェクの結論部分にあたることであろう。資本主義イデオ
ロギーがもたらす破局(敵対性で示されたもの)をある意味一度認めてしまって、その上
で未来から遡及的に過去である現在を考え行動する。この考えが「革命的」なのは歴史に
「If・・」を付けることはできないという認識をひっくり返して、現在と未来との時間の中に
挿入しているところである。これによって、何度も「始まり」への戻ることが可能となり、
「コ
ミュニズム仮説」の実践へと繋がる。「われわれこそ、われわれが待ち望んでいた存在であ
る」という矛盾したような言説もこの認識からきているのである。

以上まとめたのが本著の概要である。

ジジェクの最後の締めくくりはこうだ。

 「恐れるな、さあ戻っておいで!反コミュニストごっこは、もうおしまいだ。そのことは不
問に付そう。もう一度、本気でコミュニズムに取り組むべきだ。」

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